お茶の水女子大学歴史資料館ではたらく学生のブログ

企画展【学生寮に暮らす】第4回:戦時下の寄宿舎 ―わが子と暮らす

10月31日から開始したオンライン企画展。ついに第4回まで進みました。
今回のテーマは「戦時下の寄宿舎 ―わが子と暮らす」
戦争で夫を亡くしながらも、わが子と共にたくましく生きた女性たちの姿を見ていきます。




1.はじめに ―夫を亡くした女性たちと貞秀寮


 日中戦争が開始されてしばらく経った昭和14(1939)年、戦没者寡婦(戦死した軍人の未亡人)のなかでも教員を志す女性のために、全国に特設教員養成所が設置されることになりました。戦没者寡婦の生活援助、教員不足への対処などが主な目的でした。
 この時、東京高等女子師範学校には、東京特設中等教員養成所が併設されます。第一回生の32人は、同所の「家事裁縫科」(翌年度から「裁縫科」)に入学し、2年後に修了しました。
 教員養成所の設置と共に新しく整備されたのが、子連れの女性に配慮した、母子ともに入寮できる寄宿舎「貞秀寮」でした。東京特設中等教員養成所の生徒が貞秀寮でどのように暮らしていたのか、その生活の様子に迫っていきましょう。

「寮の生活 其の二」
蚊帳の子どもを見守りながら、復習をするために机へ向かう母。画面左上には、戦死した夫をまつる仏棚が見える。日中、母は学校へ行き、子は保育施設へ預けられ、離れ離れで過ごす。夫の霊が見守るなか、母子は夜に何を話すのだろうか。

(前略) 亡き夫の遺影を飾り、それに語りかけ、暗黙の答を受け止め、合掌しては励ましの糧とした。机と本棚のほか飾る花といえば仏花のみ。侘びしい六畳一間きりの室ではあったが足りない自分を叱咤し続け教員の免許状をこの手に握る迄はの意気込みは誰も一様であった。(後略)

――第1回生の手記「貞秀寮の子供達」より一部抜粋 昭和56(1981)年8月 (原文ママ)



2.貞秀寮の構造


 貞秀寮は東京都板橋区板橋(現在の板橋区大山)にありました。恩賜財団軍人援護会東京府支部が既設のアパートを購入し、東京特設中等教員養成所に貸し付けたものでした。
 はじめ第一寮、第二寮の二軒が建てられました。どちらの寮にも個室の他に舎監室、事務室、食堂、応接室、ミシン室、浴室などがありました。

「寮の生活 第一貞秀寮」
第一貞秀寮の玄関口。第一寮は木造二階建て。和風瓦葺の建物。

「寮の生活 第二貞秀寮」
第二貞秀寮の全景。セメントが塗られた洋風の建物。

「寮の生活 其の一」
第一貞秀寮の写真。ミシン室か。


 のちに第三寮、玉成舎も建設されることになります。玉成舎は特設中等教員養成所の生徒が子どもを預ける保育施設であり、また、生徒たちが自習や団らん、訓話を行う集会施設でもありました。

「貞秀寮 玉成舎」

「貞秀寮 訓話」
毎月第1土曜に、全寮の生徒が玉成舎に集って修養会を開いた。舎監の訓話、名士の講演の外、自治的な修養研鑽の座談会も行われたという。



3.写真でめぐる、貞秀寮のくらし


 貞秀寮、玉成舎での日々のくらしについては、お茶の水女子大学に所蔵されている写真や、生徒たちの手記に、生き生きとあらわれています。

 貞秀寮では、戦没した夫の慰霊を欠かしませんでした。本大学所蔵の写真集には、夫の命日に際して朝の礼拝や食前の黙とう、靖国神社への参拝などを行う生徒の姿がみられます。

「寮の生活 第一貞秀寮命日表」

「寮の生活 命日の黙祷(朝のお食事前に)」
食堂近くには亡き夫たちの命日が掲示されていた。誰かの命日になれば、全員で朝食前に黙とうし、冥福を祈った。


  朝食を終えると、生徒たちは子供を寮に置いて、学校へ向かいました。子どもたちは母の留守中、附属の保育施設である玉成舎で過ごしました。保母として子どもたちの保育にあたったのは、東京女子高等師範学校保育実習科の卒業生たちでした。
 日中、子どもたちは貞秀寮か玉成舎で遊んだり、勉学に励んだりしました。子どもが病めば母の欠席に繋がったので、戦時中のわびしい食生活のなかでも、保母や舎監は食事や栄養、清潔さには特別気を使ったといいます。

「寮の生活 学校へ(いってらっしゃい)」
貞秀寮に預けられた子どもたちが、東京特設中等教員養成所に登校する母を見送っている。

「貞秀寮 遊戯」

「貞秀寮 復習」


 休日や勉強の合間には、子どもを交えた団らんの風景がありました。20代~30代と幅広い年代の生徒たちが一同に会していましたが、同じ境遇の者どうしで話がはずみ、日々の励みになったといいます。

「寮の生活 (其の一)日曜日の午後」

「貞秀寮 団欒」
「貞秀寮 団欒」 昭和17(1942)年6月



4.おわりに


 東京特設中等教員養成所は、7回生が昭和22(1947)年に修了したのち、その歴史に幕を閉じました。昭和20(1945)年、戦局の悪化に伴い、東京特設中等教員養成所の生徒たちは、東京の貞秀寮を離れて各地へ疎開するようになります。戦後、貞秀寮は母子寮として存続し、一般の母子生活支援施設となりました。現在は山中母子寮(現、サンライズ山中)のみが残っています。

 夫を戦争で亡くした母子を受け入れる寮、貞秀寮。そこでは、戦時下の特異な状況の中で、多くの人々が寄り添い合い、励まし合い、助け合って暮らす風景をみることができます。




 オンライン企画展「戦時下の寄宿舎 ―わが子と暮らす」、いかがでしたか?第4回はMuSAの「かめい」が担当しました。
 第5回は「うさ子」が「学生寮と自治」というテーマで、お茶の水女子大学寄宿舎の自治活動についてご紹介します。
 お楽しみに!




*参考文献*
・お茶の水女子大学デジタルアーカイブズhttps://www.lib.ocha.ac.jp/archives/guide_shiryoukan.html (最終閲覧:2022/11/18)
・「お茶の水女子大学百年史」刊行委員会編『お茶の水女子大学 百年史』(「お茶の水女子大学百年史」刊行委員会、1984年)
・奥田環「東京特設中等教員養成所と貞秀寮―戦時下の母子支援―」(お茶の水女子大学『お茶の水女子大学人文科学研究』第3巻、2007年3月)
・逸見勝亮「戦歿者寡婦特設教員養成所の設立」(北海道大学教育学部『北海道大学教育学部紀要』第80号、2000年3 月)
・第1回生手記「貞秀寮の子供達」(1981年8月、お茶の水女子大学大学歴史資料館所蔵)

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