企画展【学生寮で暮らす】第1回:プロローグ/学生寮の建物と部屋
プロローグ
令和4年(2022)4月、お茶の水女子大学のキャンパス内に新しい学生宿舎「音羽館」が誕生しました。これを記念し、本学とその前身の教育機関における学生寮・寄宿舎を振り返るオンライン企画展、【学生寮で暮らす】を開催します。
本学は明治8年(1875)に東京女子師範学校として開校したのち、時代の変遷とともに名称や形態を変えてきました。そのなかで、いつも学生たちの学習や研究、課外活動を支えてきたのは、学内やその近辺に設置された学生寮・寄宿舎です(表1)。
本展では、当時の学生寮や寄宿舎とそこでの生活に焦点を当て、約一ヶ月の間、以下の五つのテーマに沿ってご紹介します。
第1回 学生寮の建物と部屋
第2回 学生寮での食事
第3回 寄宿舎の余暇と休日
第4回 戦時下の寄宿舎 —わが子と暮らす
第5回 学生寮と自治
※テーマはやむを得ず変更する場合があります。ご了承ください。
第2回 学生寮での食事
第3回 寄宿舎の余暇と休日
第4回 戦時下の寄宿舎 —わが子と暮らす
第5回 学生寮と自治
※テーマはやむを得ず変更する場合があります。ご了承ください。
なお、令和5年(2023)春からは、歴史資料館にて企画展示「写真で見る学生寮(仮)」が開催される予定です。この機会にどうぞご来館ください。
表1…色付きは寄宿舎・寮に関する事項です。
※「お茶大の歩み」(お茶の水女子大学歴史資料館ホームページ)、『お茶の水女子大学百年史』、『学園だより』第三号より作成。
※新制大学発足よりあとを含む年表は、第5回にて掲載予定です。
※新制大学発足よりあとを含む年表は、第5回にて掲載予定です。
第1回 学生寮の建物と部屋
第1回では、表1の太字部分にあたる第一寄宿舎を取り上げます。
関東大震災で被害を受け、現在地である大塚に移転した東京女子高等師範学校では、昭和4年(1929)に第一寄宿舎が、7年後の昭和11年(1936)に第二寄宿舎が完成します。いずれも昭和20年(1945)の空襲で焼失してしまいますが、歴史資料館ではまとまった写真資料を保存しています。
また、「東京女子高等師範學校寄宿舎並建物配置豫定圖」(昭和4年)には、寄宿舎の間取りが細かく記録されています。今回はこの地図と写真資料をたよりに、約90年前の寄宿舎の玄関から足を踏み入れてみましょう。
また、「東京女子高等師範學校寄宿舎並建物配置豫定圖」(昭和4年)には、寄宿舎の間取りが細かく記録されています。今回はこの地図と写真資料をたよりに、約90年前の寄宿舎の玄関から足を踏み入れてみましょう。
①「東京女子高等師範學校寄宿舎並建物配置豫定圖」(昭和5年)より、第一寄宿舎の拡大図
第一寄宿舎は、周囲を土塁に囲まれています。今回は、右上(北東)辺りにある玄関から、左上(北西)に向かって寄宿舎をご案内します。
①の範囲は、現在音羽館やStudent Commons、文教育学部2号館などがある、キャンパスの西部に相当します。
第一寄宿舎は、周囲を土塁に囲まれています。今回は、右上(北東)辺りにある玄関から、左上(北西)に向かって寄宿舎をご案内します。
①の範囲は、現在音羽館やStudent Commons、文教育学部2号館などがある、キャンパスの西部に相当します。
現在のキャンパスマップと比較すると、地形や敷地の形状に共通点が見られます。
自…自修室(自習室) シ…寝室 キ…勤務者室 サ…裁縫室 リ…理装室 ワ…渡り廊下 ※上側が北。
※こちらの資料について、昭和4年とご紹介していました。お詫びして訂正いたします。
1.玄関
②「玄関」(昭和5年(1930)3月)
7時30分の登校に合わせて、生徒はここから授業に向かいました。
7時30分の登校に合わせて、生徒はここから授業に向かいました。
高台であったため、第一寄宿舎のテラスからは護国寺の屋根が見えました。
現在の音羽館(地上7階建)からは、池袋の高層ビルが望めます。
③「登校(一)生徒昇降口」(昭和5年3月)
第一寄宿舎から学校に向かう生徒が写されています。全員が袴姿です。
第一寄宿舎から学校に向かう生徒が写されています。全員が袴姿です。
校舎は昭和7年に大塚に移転したため、昭和5年時点では大塚から御茶ノ水の仮校舎まで通学していました。
④「寄宿舎 登校」(昭和11年(1936)3月)
②、③の玄関から授業に向かっています。
②、③の玄関から授業に向かっています。
③から6年後の写真ですが、全員が洋装で写っています。
2.寝室・理装室・自習室
寝室は1室4名、理装室と自習室はそれらを挟む2室、つまり8名で共同利用していました。
⑤「寝室」(昭和5年3月)
寝室は、謡いやお花、お茶などのお稽古にも利用されました。
寝室は、謡いやお花、お茶などのお稽古にも利用されました。
⑥「洗面所」(昭和5年3月)
洗面所は理装室とも呼ばれました。
洗面所は理装室とも呼ばれました。
中の様子が見えにくいですが、例えば東京女子高等師範学校教諭兼訓導が著した『校具及教具の研究』では、鏡や用具を入れる引き出しが付いた鏡台や、水道設備のある洗面台の図を用いて理装室を説明しています。
⑦「自習室の勉強」(昭和5年3月)
椅子、机、棚が設置された自習室。毎晩午後7時から9時までは「黙学」の時間とされていました。2時間にわたる「黙学」は、明治末期にはすでにみられます(『お茶の水女子大学百年史』254頁)。
椅子、机、棚が設置された自習室。毎晩午後7時から9時までは「黙学」の時間とされていました。2時間にわたる「黙学」は、明治末期にはすでにみられます(『お茶の水女子大学百年史』254頁)。
3.洗濯室
第一寄宿舎では、玄関から寝室や自習室の横の廊下を直進すると、洗濯室に行きあたります。
第一寄宿舎では、玄関から寝室や自習室の横の廊下を直進すると、洗濯室に行きあたります。
途中、右手に食堂と炊事場がありますが、食事については第2回「学生寮での食事」でご紹介します。
⑧「衣類の洗濯整理(一) 洗濯」(昭和5年3月)
ここでは、割烹着を身につけた生徒たちが洗濯をしています。洗濯室には複数の水栓が並び、たらいを使って洗っていました。
ここでは、割烹着を身につけた生徒たちが洗濯をしています。洗濯室には複数の水栓が並び、たらいを使って洗っていました。
4.浴室
以上、四つの空間を中心に大塚移転後の寄宿舎についてご紹介しました。
寄宿舎では全ての設備を生徒が共有し、協力し合って生活する様子が見て取れます。デジタルアーカイブズで生徒が写る写真資料には、寮友たちと一緒にいるものが非常に多いです。
一方新たに開寮した音羽館は、寝室はもちろん、シャワールームや洗面台も個人の部屋にまとまっていて、例え一日中部屋から出なくても生活できそうなつくりになっています。
しかしながら、談話室やキッチンスタジオなどが用意されており、学生の交流を生み出す空間も整っています。
しかしながら、談話室やキッチンスタジオなどが用意されており、学生の交流を生み出す空間も整っています。
約90年の間に大きく変わった点も多いですが、学生寮は現在に至るまで、そこで暮らす生徒・学生にとって必要不可欠な施設であり続けました。本展が、現在の学生寮から約90年前の寄宿舎に思いを馳せるきっかけとなりましたら幸いです。
企画展【学生寮で暮らす】第1回は、歴史資料館MuSAの「びわ」が担当しました。
企画展【学生寮で暮らす】第1回は、歴史資料館MuSAの「びわ」が担当しました。
今回ご紹介した学生寮・寄宿舎を舞台として、実際の舎生たちはどのような生活を送っていたのでしょうか。
次回は「学生寮での食事」をテーマに、MuSAの「なめこ」が更新します。
現在、【学生寮で暮らす】のTwitter連動企画「#とある1日企画」を開催中です。
次回は「学生寮での食事」をテーマに、MuSAの「なめこ」が更新します。
現在、【学生寮で暮らす】のTwitter連動企画「#とある1日企画」を開催中です。
参考文献
・「お茶の水女子大学百年史」刊行委員会編『お茶の水女子大学百年史』(「お茶の水女子大学百年史」刊行委員会、1984年)
・お茶の水女子大学歴史資料館ホームページ https://www.lib.ocha.ac.jp/archives/ 最終閲覧日:2022年11月1日
・お茶の水女子大学歴史資料館デジタルアーカイブズ https://www.lib.ocha.ac.jp/archives/shiryo_top.html 最終閲覧日:2022年11月1日
・『学園だより』第三号(お茶の水女子大学、1967年6月20日発行)
・「寄宿舎写真帖」(1930年3月)
・『東京女子高等師範學校第六臨時教員養成所一覽 自昭和4年至昭和5年』(東京女子高等師範学校、1929年。資料①を収録)
・戸倉廣雅(東京女子高等師範學校教諭兼訓導)『校具及教具の研究』(昭文堂、1910年)
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/809745 最終閲覧日:2022年11月1日
・戸倉廣雅(東京女子高等師範學校教諭兼訓導)『校具及教具の研究』(昭文堂、1910年)
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/809745 最終閲覧日:2022年11月1日